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「覚悟ではなく勇気を」家族の視点から学ぶ介護の世界についてイベントレポート

※本記事は2020年2月29日に行われた”家族の視点から学ぶ介護の世界”の講義レポートです。

1回目、2回目のイベントレポートはこちら

本講義は面白法人カヤックが主催する「まちの大学」の一部として行われた。

まちの大学とは

2019年5月に開校した鎌倉に根ざしたコミュニティスクール。

地域資本主義を掲げ、環境資本・社会関係資本など、地域に根ざした資源を蓄積し還流させることを目的とした「まちのシリーズ」の1つとして、地域に根ざした学びを増やす活動を行なっている。

鎌倉の地域の特徴として3つのテーマを取り上げ、フード学部、ボディ&マインド学部、アイデア学部がある。

まちの大学HP
面白法人カヤックHP

目次

第三回レポート

今回も東郷 俊宏氏(順天堂大学協力研究員/鍼灸salonえれじあぷらて〜ろ主宰)が講義を行った。

第3回目のテーマは「見送り」
東郷氏は、介護を始めたときから見送りのことを考えるのは不謹慎なことではない。在宅介護の現場では、しばしば医師や看護師、ケアマネなどの専門職から「覚悟」と言う言葉が語られる。そして医学や人のケアについてほとんど知識を持たない家族は、無言のうちに専門職から迫られる「覚悟」にとてもおびえているのだ。だから「覚悟」という言葉を「勇気」に変えて「勇気を持って見送りに臨む必要がある」との語りから始まった。

東郷氏は第2回までの講義を振り返り、在宅介護を実りあるものにするためには、主治医とケアマネジャーとが上手に連携することが大切であり、家族も主治医とケアマネのバックグラウンドを知った上で双方に家族の意思を伝えることがより良い介護チームの形作りに繋がるとした。
実際、東郷氏はショートステイ先で頻回の吸引が必要となり、お母様を自宅に連れ戻した時点で、主治医に、自宅で看取る意思を伝えていた。主治医もこれをうけて、担当者会議で介護チームに対し、「スタッフの中には看取りに不慣れな人もいるだろうが、協力し合いましょう」と呼びかけられ、1つのチームが出来たという。母親はそれから一週間後になくなった。

東郷氏は、鍼灸師仲間から紹介された鎌倉自宅葬儀社を訪ね、自宅で葬儀をすることを既に決めていた。そして看取った直後から火葬場に行くまでの88時間という時間がとても豊かであったと語った。親に会いに行くためにわざわざ服を着替えたり、人の目を気にしたりすることもない、自宅で看取るからこそ、好きな時に好きなだけ親に語りかけることが出来ると言う。

東郷氏が自宅で母親と語り合っている間に、鎌倉自宅葬儀社の馬場氏は、お母様が好きだったクチナシの花を鎌倉、逗子中の花屋を廻って探し出してきた。お通夜ではたった一輪咲いていた季節外れのクチナシを棺に収めた。

東郷氏は自宅での葬儀(通夜)に、家族のほかに、お世話になったヘルパーさんや訪問看護師を招いた。
通常、お年寄りが亡くなった場合、葬儀に参列するのは事業所の責任者のみの場合が多く、実際にケアに携わった人が参列することは少ない。自分がお世話したお年寄りと最後のお別れができることはまれなのだ。東郷氏は、二年間訪問で母親のケアに関わったヘルパー、訪問看護師、理学療法士は、母親を見送るというプロジェクトを1つのチームで達成した仲間と考えた。そしてこの仲間と母親の最期を確認し合うことが明日への勇気を与えてくれると考えた。

お通夜にはお母様のケアに携わった介護職、看護職の人が25名ほど集まり、広島の原爆慰霊碑にみたてたドーム型のキャンドル台に一人ひとりろうそくを灯した。東郷氏はお母様が好きだった崎陽軒のシウマイ弁当と、お母様からレシピを引き継いだ自家製ハヤシライスを作り、見送りに来てくれた方々に振る舞った。シウマイ弁当はお母様が入院中、ソフト食を食べさせられていたときに、こっそり差し入れして食べさせ、看護師とけんかした思い出のある弁当だ。遺体が損傷しないよう、寝室からリビング、キッチンにいたるまで冷房で低温に保っていたなかで熱に唸りながら作ったハヤシライスを皆さんは美味しそうに食べてくれたという。

そして告別式。その日は朝から晴れていて、東郷氏は青空をみながらふと思い立って「千と千尋の神隠し」で使われた「いつもなんどでも」のCDをかけた。といっても木村弓のオリジナルではなく、ウクライナ人歌手、ナターシャ・グジーの歌を。

ジブリの映画は、両親と一緒に引越をしていた主人公が、神々の集う不思議な世界に迷い込む話で、そこに死のモチーフは感じられないけれど、主題歌の「いつもなんどでも」は、明らかに「弔い」をテーマにした歌詞であるという。

歌詞にある「さよならのときの静かな胸 ゼロになるからだが耳をすませる」は、息を引き取った人が、天上から迎えに来る天使たちの到来を待つ様子と捉えることができるし、「はじまりの朝の 静かな窓 ゼロになるからだ 充たされていけ」は、これから火葬されてゼロになる身体が、やはり見送る人々の思いで充たされていくさまと捉えることができるという。

東郷氏のお母様は原爆で家族を失い、認知症になってからも「お母さん」と呼び続けていた。ウクライナ人歌手のナターシャ・グジーも、チェルノブイリ原発事故で故郷が封鎖され、二度と還ることができぬまま日本で演奏家としての活動を始めた。だから告別式の朝に聞く、ナターシャの「いつもなんどでも」は、まるで自分の母親のことを歌われているように感じられたのだ。

「本当に一緒に見送りたい人はどなたですか?」

こうして、自身の看取りと見送りについて述べられたうえで、東郷氏は、「必ずしも自宅での見送りが最善ではなく、施設や病院でも心の通ったスタッフと一緒に見送ることは可能です」とした。そして自宅で見送る場合は、警察の検視などをうけることがないよう、予め主治医が死亡診断書を書いてくれることを確認しておいた方が良いこと、病院や施設で亡くなった場合は、葬儀会社が管理する安置施設へ搬送されることがほとんどだが、安置施設から自宅へ搬送してもらうことも可能であるため、最期の時間を家族水いらずで過ごすならば自宅への搬送を希望する選択肢もあることが語られた。

最後に東郷氏は「最期の一瞬に必ずしも立ち会うことが大切ではない。それまでの過程の方が大切である。」
事実、自身も最期の瞬間には立ち会えなかったが後悔は全くなかったとのこと。「お互いによく頑張ったね」そう思うことが出来たと語った。
誰からも教わってこなかった、老いて死ぬということ。親や他者の死から人の死を実感し、改めて命の重さを知ることが出来るのではないだろうか。と語り今回の講義は幕を閉じた。

決して人の死は避けることが出来ない。
幸せに永眠できるよう演出することが、親への感謝であり、後悔しない見送りになるのではないかと感じた。

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